第56回 阪神近代文学会2018年度冬季大会

■研究発表

森鷗外寒山拾得」論 ―「尊敬」と「笑う」の意義―
関西学院大学博士後期課程 王 晨野

 「寒山拾得」は大正四年十二月七日に脱稿、大正五年一月に『新小説』に掲載された鷗外の歴史小説である。脱稿したわずか二日後、「高瀬舟寒山拾得―近業解題―」と題する文章を佐々木信綱に送り、大正五年一月に雑誌『心の花』に載せた。のちに「高瀬舟寒山拾得―近業解題―」を「高瀬舟縁起」と「寒山拾得縁起」に再編集し、作品付録の形式で「寒山拾得」とともに春陽堂発行の単行本『高瀬舟』(大正七年)に収録した。
 寒山詩が活字本にして出されるという広告を読んだ子供に、寒山拾得の話をして、その話を参考書を一冊も見ずに書いたと、鷗外は「寒山拾得縁起」で執筆経緯を語った。参考書を一冊も見ずに書かれたのは鷗外歴史小説において極めて異例である。「寒山拾得」が発表された同年同月に、鷗外は『東京日日新聞』、『大阪毎日新聞』に史伝「渋江抽斎」の連載も始めた。「寒山拾得」は鷗外最後の歴史小説であり、史伝移行前の最後の「自由」作とも言えるだろう。
 本作は、豊干により頭痛を治してもらった官僚閭丘胤が、豊干の出身である天台国清寺へ、文殊寒山と普賢の拾得に会いに行った物語である。作中に明言された「盲目の尊敬」は俗吏閭への風刺だと、多くの先行研究に指摘され、主人公閭の官僚という属性に焦点を置き、正面から論じられてきた。しかし、閭の「尊敬」は官僚としてではなく、一人間としてであるため、閭の人間像を分析する必要があるように思われる。また、題名の寒山拾得両人物も看過できない。ほかの寒山拾得に関する作品や従来の絵画により、寒山拾得は笑っているイメージが強い。そして、鷗外も「二人で笑っていた」と書いているように、鷗外の中にも二人の笑い姿の印象が残っていた。本作の最後で、二人は「こみ上げて来るような笑い声を出した」こともその印象に繋がっているだろう。以上のことを踏まえ、寒山拾得の「笑う」の意義を解明する。


怪奇小説鑑賞における不安の機能と手法 ―谷崎潤一郎『人面疽』の一例を巡って―
大阪大学大学院博士後期課程 エスカンド ジェシ

 1918年に発行された『人面疽』は、谷崎潤一郎の作品の中ではさほど研究されておらず、作中でモチーフにされているシネマに焦点を当てた論文しか見られない。その問題点に注目し、本研究は別の観点から、怪奇小説としてよく読まれている『人面疽』の新たな再読可能性を確認する。それは、ファンタスティック小説論を用いたものである。
 その再読の際、何を指摘できるか。ファンタスティック小説と怪奇小説は共に、読者に不安を感じ取らせることを目標にする。『人面疽』の再読においてファンタスティック小説論が利用された結果、分析できる創作手法はどのようなものであるか、どのように機能するかを指摘し、ファンタスティック小説と怪奇小説の関連性と類似性を論じる。
 今までファンタスティック小説論の中で取り扱われた作品は主に欧米のものであった。東洋の作品が取り扱われたこともあるものの、ファンタスティック小説扱い自体が疑問視されたことが多く、日本においてファンタスティック作品の有無と可能性自体さえも疑問点とされてきた(須永朝彦)。しかし近頃、長らく停滞してきた現状を疑う声が多くなり、Bozzetto Rogerのような理論家によって、異文化圏の作品の対応を可能にするほどファンタスティック小説の規定が更新され拡大された。
 『人面疽』の再分析以外には、怪奇小説論にファンタスティック論を加えるメリットとして何があるだろうか。怪奇小説とファンタスティック小説は確かに、異なる社会環境で生み出されたジャンルである。しかし、人間に普遍的な感情―ある種の不安― を目標にする文学として、創作手法も様式も一貫する。本発表で紹介するのは、いまだ議論のさなかにある日本文学において、ファンタスティック小説の有無の判断、怪奇小説の機能の指摘、怪談とファンタスティック小説と怪奇小説の影響関係に関する仮説などについてである。


太宰治『新ハムレット』論 ―逍遥訳『ハムレット』を手掛かりに―
大阪工業大学非常勤 川那邉 依奈

 『新ハムレット』(1941年7月、文芸春秋社)は、太宰治の初めての書き下ろし長篇小説で、シェイクスピアの戯曲『ハムレット』の翻案作品である。本作は、発表当時からその賛否が大きく分かれ、多様な解釈が試みられてきた。鶴谷憲三氏は、研究史において重点が置かれてきたポイントとして、以下の4点を挙げている。第一は、原典であるシェイクスピアの『ハムレット』との比較を検証することによって、〈太宰化の過程〉(小田島雄志)を考察する試みである。第二は、時代性、つまり発表された昭和16年という年の時流に力点を置く立場。第三は、これまでの文学性をふまえた太宰の〈私小説〉性に力点を置く立場。第四は、同じく『ハムレット』に材を得た、志賀直哉「クローディアスの日記」(『白樺』1912年9月)、小林秀雄「おふえりや遺文」(『改造』1931年11月)といった先行作品に対する文学者としての意識を問題にする立場である。近年の研究では、同時代の言説空間のなかで『新ハムレット』が持ち得た、歴史的な批評性について、明らかにされつつある。松本和也氏は、鶴谷氏による整理を提示した上で、第二の歴史的な〈文脈〉として、戦時下の青年をめぐる言説を取り上げ、『新ハムレット』の〈青年〉と、同時代の青年論とに通底するものを見出している。
 本発表では、『新ハムレット』の執筆資料とされる、坪内逍遥訳『新修シェークスピヤ全集 第27巻 ハムレット』(1933年9月、中央公論社)をひとつの手掛かりに、翻案の手法という視座から、作品テクストの再読を試みたい。逍遥訳『ハムレット』は、明治期の文芸協会での上演を見据えて、西洋の古典演劇である『ハムレット』を、日本の伝統的な演劇形式の「歌舞伎調」で翻訳したもので、文芸作品としての独創性や魅力を備えている。その意味では、単なる執筆資料にとどまらず、創作の源泉として、翻案作品としての『新ハムレット』の位相をさぐる上で重要な手掛かりとなり得ると考える。


川端康成「日も月も」論 ―戦死者の〈遺文〉を手がかりに―
関西大学大学院博士前期課程 辻秀平

 「日も月も」は、『婦人公論』に昭和二十七年一月から連載された川端康成の長篇小説で、京都と鎌倉という二つの〈古都〉を主な舞台とし、一実業家の家を中心に繰り広げられる愛憎劇を描いた作品である。本作は連載中に早くも単行本の広告が出され、重版を重ね、後年川端がノーベル文学賞を受賞した際には記念映画化された。本作は先行研究ではいわゆる「中間小説」として位置付けられる傾向にあり、「千羽鶴」や「山の音」といった戦後の主要作品と比して研究がさほど進んでいない状況にある。
 戦後の川端は、世相や現実から目を背け、「日本古来の悲しみ」に帰ることを語った随筆「哀愁」(『社會』昭和二二・一〇)に見られるような、〈伝統(古典)〉回帰の姿勢がある。だがその〈伝統〉回帰の姿勢だけでなく、川端の戦後の作品には、武田勝彦や谷口幸代などが指摘するように、戦争の傷が癒えない戦後社会が抱える問題を直視し、その矛盾や為政者への批判的な目線を顕わにする傾向も見られる。本作でもこの傾向が見られ、奥村紀美が昭和天皇の京大訪問の際の「騒擾」を考察し、天皇の戦争責任に対する批判的な眼差しの存在を指摘している。
 発表者はこれまでの先行研究で等閑に付されてきた、本作中に見られる戦死した出征兵士の手紙や遺文集といった〈遺文〉の存在に注目する。と言うのも本作は、これらの〈遺文〉が作品世界の基底に存在しており、物語が展開する中で時折その存在を顕にする〈遺文〉によって、愛憎劇が生み出されているからである。〈遺文〉というモチーフは、川端が太平洋戦争中に『東京新聞』で連載した特集「英霊の遺文」がその背景として想定される。この特集で川端は、戦死した将兵の遺文集を抜粋、引用して感想を付しているが、この作業を通して川端が〈遺文〉から見出した「無言」、「母なるもの」という性質は、本作中の〈遺文〉にも活かされていると考えられる。
 以上を踏まえ、本発表は作中人物の行動を規定するような〈遺文〉の効果が、本作においてどのような意味を持つのかを検討したい。


安部公房『他人の顔』における都市の表象
神戸大学大学院博士前期課程 長澤 拓哉

 『他人の顔』は、雑誌『群像』に一九六四年に発表された長編小説である。一九六〇年代の安部公房は、「隣人を超えるもの」(『現代芸術と伝統』、一九六六)や「都市について」(『新潮』、一九六七)というエッセイに示されるように「都市」と「他人」という問題に大きな関心を寄せていた。安部は本作と『砂の女』(新潮社、一九六二)『燃えつきた地図』(新潮社、一九六六)の三作を合わせて「失踪三部作」と呼んでいるが、この「三部作」いずれにおいてもそれらの問題が作品の中心的な主題となっている。『砂の女』に代表されるように、一九六〇年代は安部の文学活動が最も隆盛を極めた時期であり、『他人の顔』を含むこれらの作品群は安部公房研究においても重要な意味を持つものである。
 本作は、実験中の事故で顔を失ってしまったことで他者との関係性が断たれたと感じている主人公が、他者の顔を型取った仮面を用いて妻と密通を行うことで関係性を回復しようとする物語である。題名にもなっている通り、本作における主題は「他人」(他者)の問題であり、先行研究でもその点が中心となって議論が進められてきた。
 本作における「他人」とは、現代の「都市」という空間における「他人」という存在である。したがって、本作における自己(=主人公)と他者という問題を考察するにあたっては、まずその存在の根幹を成すものである「都市」に関する議論が不可欠であるだろう。本発表では、そうした「他人」と主人公を取り巻いている物語空間である「都市」がどのように表象されているのかを、物語展開に即しながら各場面ごとに分析していく。その際に参照したいのが、川添登黒川紀章粟津潔らいわゆる「メタボリズム・グループ」を中心に展開された同時代の都市論的言説である。それらを踏まえつつ都市空間と作中人物たちとの関係性を検証することで、安部の中期の作品を貫く問題である「都市」と「他人」という主題が『他人の顔』にどのように示されているのかを考察する。