第57回 阪神近代文学会2019年度夏季大会

坂口安吾『明治開化 安吾捕物帖』における怪奇の論理

神戸大学大学院博士前期課程 西田 正慶

 坂口安吾『明治開化 安吾捕物帖』は、一九五〇年十月から一九五二年八月にかけて雑誌『小説新潮』に掲載された短篇形式の「捕物小説」である。作品の舞台を〈明治〉に置き、安吾に擬せられる語り手が〈戦後〉という時点から作中に介在する様式をとることから、本作は戦後批判の諷喩として把捉されてきた。

 捕物帖という作品形式は、安吾自身の言説に拠れば「短篇で推理小説を読ませる」のに適する一方、「複雑な謎とき」を排斥することで成立している。その言を裏付けるように、安吾は「読者への口上」として本作が「厳密な推理小説」ではないと断っている。本作には「不連続殺人事件」(『日本小説』47.8~48.8)や「復員殺人事件」(『座談』49.8~50.3)にはなかった怪奇=オカルト的要素が盛り込まれている点に、前作までの傾向との相違が見出されよう。とりわけ本発表は、「魔教の怪」(50.12)、「覆面屋敷」(51.7)に見られる怪奇性の表象に着目したい。〈明治〉と〈戦後〉という二つの時代に挟まれた、大正末期から戦時期におけるモダニズムの産物である探偵小説が、科学的なものと怪奇的なものとの葛藤を抱え込んでいたことに対する、安吾からの応答がここに見出されるからである。

 安吾の実存の問題とも切り離せないのは、「精神」という鍵語である。一九四九年、安吾睡眠薬の過剰摂取により東大病院神経科へ入院する。その際の内省の記録を「精神病覚え書」(49.6)という形で書き留めている。そこで安吾が思考したものの一つは、信仰と宗教についてであった。こうした安吾の実存的な体験を考察の視野に置きながら、『安吾捕物帖』における宗教的なものと近代的なものの表象が有する意義を問い直したい。本発表は、怪奇と探偵小説(=科学)という近代が生成した難題を『安吾捕物帖』において、いかに引き受けたかについて検討する。

 

 

芥川龍之介「奇怪な再会」論―日清戦争・近代化を背景にした〈狂女〉の生成

立命館大学大学院博士後期課程 王

  〈精神病者〉〈娼妓〉〈支那人〉〈幻影〉〈夢〉〈迷信〉という項目は、日本の近代化の過程で社会の規範的な定常系から差別化されたものとして、一斉に大正期を代表する精神医学雑誌『変態心理』に採録されている。芥川龍之介「奇怪な再会」において、近代化以前の清国という〈後進国〉、近代的合理性と対置された〈野性〉〈迷信〉、近代文明・社会から同質のものともくされて、排除された〈娼婦〉〈狂女〉といういくつかの記号がその造形に同時に集約されているヒロイン「孟蕙蓮」は、極端なまでに重層的な〈他者〉となっている。戦後近代化の急速成長に乗じようとする帝国男性に消費・圧迫されつつ、ヒロインは〈野性〉の蘇生をきっかけに〈狂女〉に「逸脱」して、近代化から完全に篩い落された存在となり、最後に近代文明に遠ざかる脳病院に「収容」されるに及んだ。それは一方において、近代化発展と近代戦争の理論的基盤を構成する、「創造力、明晰、知性、秩序」や「超越」・「技術」・「理性」などの「男性的要素」が「支配的にな」り、「内在」・「魔術」・「迷信」=女性的要素を「打ち勝った」ことの具象化だと考えられる。日清戦争期に軽工業を、日露戦争期に重化学工業を発達させた日本の近代化への困惑と懐疑を抱きつつ、未だ足を踏み入れていない隣国中国の近代化発展との連動性をも視野に入れて、芥川は近代文明の恩恵を蒙った日本ブルジョアジーの男性と、それにより周縁化され、しかも間接的に壊された中国の下層女性を塑造し、描出していると思われる。日本の近代化を背景に近代的合理性と対極にある性質の持ち主である中国娼妓が重病に罹患する、テクストの末尾にヒロインの行く末に必至な幻滅を匂わせるというところに、「奇怪な再会」は「南京の基督」と通底している。

 

 

「ドモ又」の共済:戦後上海における日本人居留民の演劇活動

弓削商船高等専門学校 藤原 崇雅

  日中戦争の敗戦は、上海日本人居留民(日僑)の生活に大きな影響を与えた。当地を支配していた対日協力政権は解散し、蒋介石派国民党による統治が始まったのである。居留民たちは東北部の虹口(日僑集中区)に移動させられ、集団生活を送りつつ引揚げを待った。

 しかし、居住区域の制限はあったものの、居留民の生活にはかなりの程度の自由が認められた。日本人は保甲という町内会のような単位によって自身らを組織し、選挙やサークルといった自治活動に励んでいた。特に文化活動のうち、演劇は盛んに行われた。

 この演劇運動では、従来の新劇から上海生活を描いた新作まで、様々な種類の脚本が演じられた。中でも重視されたのは喜劇である。演劇はまず、引揚げまでの時間を享楽的に過ごさせることで軍国主義共産主義への傾倒を防ぐ、ガス抜きの役割を担っていたと想定される。

 ただし、これらの演劇にはまた別の役割も期待されていたようである。蒋介石派国民党政権は居留民管理を合理的・経済的に行うため、各々の資産を供出させ居留民生活の必要経費に充てる共済運動を推進しており、その宣導に演劇が利用されたのである。上演作品には共済の理念を説明するようなものが選ばれ、戦後上海独特の解釈がなされようとしたのである。

 以上を踏まえ本発表では、戦後上海で唯一の日本語メディアである改造日報社が発行した文献を調査することで、存在が知られてこなかった日僑集中区における演劇活動の実態を明らかにしたい。個別の作品としては、当時において共済運動推進劇として上演された有島武郎「ドモ又の死」(『泉』1922/10)をとり上げる。この作品は、あるグループに属する画家の1人が自らの犠牲によって仲間の芸術に資する話であるが、この話が上海居留民らによる助け合いの物語へと再解釈されたようだ。有島作品において表現された相互扶助の精神が、居留民管理の手段として政治利用されたことを論証したい。