第58回 阪神近代文学会2019年度冬季大会 発表要旨

吉屋信子『或る愚かしき者の話』論―雑誌『黒薔薇』にみる創作の転換―
関西大学大学院博士課程後期課程 木下響子

 『黒薔薇』は、大正十四年一月から交蘭社から発行された吉屋信子の個人雑誌である。吉屋は、創刊号に「御挨拶」と題し、「今の商業主義の雑誌の悪弊から逃れて、自由に清らかに力強く自己の芸術を育て抜いてゆく!」と宣言を載せ、この雑誌に注力していた。
『黒薔薇』創刊当時は、女性作家による個人雑誌が盛んであり、吉屋もそれらに関わっていた。例えば、生田花世の『ビアトリス』創立時の発起人として名を連ねている。また、親交の深い三宅やす子の『ウーマンカレント』でも活躍している。吉屋は『青鞜』の後期にも寄稿しているが、『青鞜』後の女性たちによる言論の場に引き続き参加していたことが伺える。

 本発表では、『黒薔薇』に連載された長編小説『或る愚かしき者の話』を取り上げる。本作品は、レズビアンセクシュアリティの文学として捉えられてきた。しかし、主人公は同性への愛を語るが、恋愛関係は成立していない。更に、作品の中の女性の関係性には〈救うもの〉―〈救われるもの〉という非対称があり、加えて実際の社会的階級も影響している。下位存在である〈救われるもの〉が、〈救うもの〉よりも上である逆転が起こっているため、関係が破綻せざるを得ないということは興味深い。また、本作品では、男性は悪役としての役割しか与えられていない。このような作品の背景には、一号に掲載された「純潔の意義に就きて白村氏の恋愛観を駁す」という文章に現れる吉屋の考えが色濃く反映されている。しかしながら、この文章には、男性排除ではないか、などの批判が主に男性読者から寄せられた。それを受けて、吉屋は「不得手な論文の形でなく小説に描き出し表現して見たい」として『黒薔薇』を休刊する。この決意の表れが、初期三部作中、『黒薔薇』以前である『地の果まで』『海の極みまで』と、『黒薔薇』以降である『空の彼方へ』における男性キャラクターの造形の変化であったことを明らかにしたい。

 

伊藤整「幽鬼の街」 における 小林多喜二
神戸大学大学院人文学研究科博士前期課程   鄭昌鎭(ジョン・チャンジン)

 伊藤整は 一九三九年五月 、二部作の小説『街と村』を第一書房から刊行した。だが本作は最初から『街と村』という二部作として構成された作品ではなかった。第一部「幽鬼の街」は一九三七年八月に『文芸』に発表され、第二部「幽鬼の村」は翌年八月『文学界』から発表された。その後、いくつかの修正と「序」の部分の追加を施し、『街と村』という二部作として再構成された。
 『街と村』は伊藤整の初期文学観と彼の実験 が行われている作品として重要である。伊藤は「ジェイムズ・ジョイスのメトオド『意識の流れ』について」(『詩・現実』第一輯、一九三〇・六) という評論を著して以来、新しい小説表現技法として「意識の流れ」に注目してきた。長編評論「新心理主義文学」(『改造』一九三二・ 四)では、自然主義文学とその作家等の描写技法を批判しながら「意識の流れ」という技法こそ新しい小説の構成に必須条件だと力説している。『街と村』はこの「意識の流れ」と「心理描写」という伊藤整が注目してきた表現技法を積極的に活用した作品であった。
 特に注目されるのは 、第一部「幽鬼の街」に 小林多喜二芥川龍之介、里見弴など実在の作家をモデルにした人物が現れる点である。なかでも、伊藤整の高校の先輩であり、プロレタリア文学者の代表格である小林多喜二のモデル化は注目に値する。本発表では、 伊藤整小林多喜二の関係を改めて精査しつつ、「幽鬼の街」で描かれた小林多喜二像について考察したい。伊藤整個人との関係及び宮本百合子との論争など、当時の文壇の状況を明らかにしながら、本作に表出された小林多喜二像について多角的に捉え直し、作品全体の中で小林多喜二像が何を意味しているかについて論じたい。

 

筒井康隆虚人たち」論―内面世界との関わり方をめぐって―
関西大学大学院博士課程前期課程 松山哲士

 筒井康隆虚人たち」は、1979年6月から1981年1月にかけて『海』に掲載された長編小説であり、同時に別々の犯人に誘拐された妻と娘を救出しようとする「彼」の行動が描かれたものである。筒井は「虚人たち」の発表前から、従来の小説表現に対して疑問を呈し、実験的な表現技法を提唱するエッセイ「虚構と現実」(『野性時代』1970年1月〜9月)を書いており、「虚人たち」でその表現技法を実践している。全体を通して特異な表現を多用しているためか、同時代評価や先行研究では「虚人たち」の実験的な表現技法について言及しているものが多く、その効果について様々に検討されている。その反面、物語の内容については副次的なものとして軽視されている傾向がある。
 発表者は、「虚人たち」の実験的な表現技法に注目するあまり、物語の内容を副次的なものとして扱うという、これまでの傾向に疑問を提示する。「虚人たち」が小説として発表されている以上、物語の内容にも重要な要素が含まれていると考える。「虚構と現実」で提示されている筒井の〈超虚構性〉に対する思想や、それ以前から援用しているJ.G.バラードの〈内宇宙〉の思想に触れれば、筒井が「虚構性を強調した」作品で「人間の精神」を表現しようとしていることが窺える。そして「虚人たち」は、「虚構と現実」でこれらの思想がまとめられてから初めて発表された小説であり、主人公である「彼」の内面世界に生きる人物として、「彼」の妻と娘が設定されていることが読み取れるのである。
 以上を踏まえ本発表では、「虚人たち」での「彼」と妻や娘との関係を中心に物語の内容から分析し、「彼」が内面世界で生きる人物をないがしろに扱っていることを明らかにする。そして、内面世界をないがしろに扱うことが自身の存在意義の喪失に繋がり、物語の結末である「彼」の消滅と関連することを指摘し、「虚構性を強調した」作品における自己の内面世界と向き合うことの必要性を検討する。