第66回 阪神近代文学会2023年度冬季大会 発表要旨

蒲原有明「漁人名称考」論―語源学との関係から―

神戸大学大学院博士課程前期課程 川上  優芽

 蒲原有明「漁人名称考」は1924年6月『日光』に発表された。『有明集』(1908)以後の有明についてはしばしば否定的に評価され、詩人としては失墜したと指摘される。しかし、『日光』誌上に「帯雲抄」(1924・7)、「校倉に就て」(1925・1)等を著した有明は、この時期盛んに〈名称考〉を試みていた。そうした「言葉の探求」の試みについて、有明は「ここに別様の意味に於て、なほ詩作はつづけられてゐる」とみずから意味付けている(『飛雲抄』1938)。このことをふまえると、従来は注目されることのなかった〈名称考〉の一群を詩作品として考察することは、『有明集』以後に対する新しい視座を与えるだろう。

 本発表では、まず1920年代における詩人たちの語源学への接近について考察する。具体的には、北原白秋を中心とする短歌雑誌『日光』(1924・4~1927・12)が民俗学へと近接したことや、『琉球諸島風物詩集』(1922)を上梓した佐藤惣之助言語学者伊波普猷に親灸したことが注目される。また、有明が「言語の砂漠で」(1924・9・26)の中で言及した言語学者新村出の「トタンの語源」(1924・8・21)はその後『東亜語源志』(1930)に収録されるが、新村は同じ著作の中で与謝野寛の「日本語原考」(1922・4~1927・4)を引用している。第二次『明星』上で30回にわたって分載された「日本語原考」もまた、語源学への接近の一つであった。第二次『明星』は1925年に文部省の仮名遣改定案に対する山田孝雄の論文や連名の抗議文を掲載しており、詩人たちが国語問題への関心を共有していたことを窺わせる。

 以上のような詩歌と語源学の関係をたどりながら、本発表では、有明の〈名称考〉を同時代の国語問題としての語源学の中に位置づけ、語源学的言説と〈名称考〉という詩作との係わり合いについて考察する。

 

小特集 百閒文学再考

 内田百閒文学は、1990年代までは、主に批評の場において夏目漱石との関係や作品の幻想性の観点から注目され、卓越した文章力によって創出される独自の幻想空間が評価された。文学史的には漱石山脈の一部あるいは傍流としての位置づけが固定化する一方、同時代の作家・文化・思潮との関わりは十分に省みられてこなかった。

 近年では、作品の視覚表象の同時代性、随筆への移行や植民地主義の問題が論じられ、2021年には伝記(山本一生著『百間、まだ死なざるや 内田百間伝』中央公論新社)が出版されたことも相まって、作品と作家周辺の資料との結びつきがより一層明らかになってきた。本小特集ではこうした研究動向を踏まえながら、百閒と同時代文化との関わり、具体的には明治40年代の海外文学移入・大正期の映画・昭和期の箏曲家による随筆に対する百閒の関心を手がかりにテクストを考察する。これにより、同時代的事象からは距離を置き独自の世界へ沈潜しつつ作品を生み出したとする従来の作家像には収まらない、新たな百閒像を立ち上げたい。

 

百閒文学の幻想性の萌芽について―写生文小説から幻想小説へ―

大阪体育大学  吉川 望

 本発表では、内田百閒が習作期において写生文小説から幻想小説へと移行した経緯について分析し、当時の百閒の関心や百閒文学の幻想性の萌芽について探りたい。

 明治43年、第六高等学校に在学中だった百閒は最初の幻想的作品「烏」を『校友会会誌』に掲載した。これは、第一創作集『冥途』(大正11年)に収められた「烏」の原型である。百閒の写生文小説から幻想小説への移行は、ひとまずこの原型「烏」を起点とみることができる。先行研究では、この移行は夏目漱石の「夢十夜」(明治41年)と「永日小品」(明治42年)に接したことによると指摘されているが、論証は行われていない(酒井英行「六高時代の内田百閒―『校友会会誌』の検討―」『文芸と批評』第5巻第5号、昭和55年)。

 発表者は、百閒が原型「烏」の前年にメーテルリンクの戯曲の翻訳「夜気」(明治42年同『会誌』)を発表していることを重視する。原型「烏」以降の百閒作品にみられる象徴的な雰囲気は、翻訳というより直接的な形で象徴主義文学を摂取したことを一つの源とするのではないかと考えている。

 具体的な論証としては、まず、「夜気」以前に書かれた写生文小説「昼顔物語」(明治42年同『会誌』)と原型「烏」との間に見られる相違点・変化について分析し、幻想的作品の嚆矢としての原型「烏」の特徴を指摘する。その上で、百閒の翻訳のあり方を踏まえながら「夜気」と原型「烏」の比較を行い、「夜気」が原型「烏」の創作にどのように反映しているかを検討する。百閒がメーテルリンクの戯曲を取り上げるに至った経緯もあわせて考察することによって、同時代における西欧の象徴主義文学の移入やメーテルリンク文学の受容という文脈において、百閒の幻想性の萌芽を確認していくことを目指す。

 

 

内田百閒「旅順入城式」論―映画言説を視座として―

立命館大学大学院博士課程後期課程  松原 大介

 1925年に『女性』に発表された内田百閒「旅順入城式」では、法政大学の講堂で日露戦争の記録映画を観る「私」が映画のなかの一兵士に同化しその行軍に「何処までもついて行」く。

 この作品については、映画鑑賞の空間的特性や映像・主体の関係の変化から論じた研究があり、映像内の兵士の「苦し」さを感じとり涙を流すほどの強い共感をみせるという「私」の特異な映画体験が注目されてきた。映画の内と外を行き来するかのような「私」のありようが「旅順入城式」を特徴付けていることは間違いないだろう。

 作品内で「私」が観る映画についてはジョゼフ・ローゼンタールの「旅順の降伏」であることが先行論で既に指摘されていたが、オリジナル版の現存が確認されていないこの「旅順の降伏」の場面を含んだいくつかの映像が国立映画アーカイブの歴史映像ポータル「フィルムは記録する」において今年から一般に公開された。これらの公開された映像を用いることで、作品内で「私」が観た映像を――限られた範囲ではあるが――復元・参照することも可能な状況となっている。

 また、初出雑誌である『女性』は映画関連の記事や特集を多く掲載しており、そのような雑誌の特性が映画の鑑賞をテーマとする「旅順入城式」に影響を与えた可能性がある。このような初出雑誌と作品との関連という視点は百閒文学においてあまり重要視されてこなかったが、こののち昭和に入ると百閒作品の掲載誌は一挙に多様化し作家・作品と雑誌との関係も複雑になっていく。「旅順入城式」はその前段階に位置する作品として改めて検討する価値があるだろう。

 そこで、本発表では百閒「旅順入城式」を分析の対象とし、実際の「旅順の降伏」の映像との関係、また『女性』掲載のものを中心とした映画言説との関連を検討することで新たな視点からの作品の読解を試みたい。

 

 

内田百閒「柳撿校の小閑」論―宮城道雄の語りに照らして―

神戸大学大学院博士課程後期課程  朱 信樺

 「柳撿校の小閑」は、1940年1月より『改造』に連載された作品である。震災で失った女弟子についての回想が、後天的に失明した柳撿校の語りによって構成される。

 発表当時はあまり注目されなかった本作は、三島由紀夫の作家論がきっかけとなって注目を浴びた。以降、研究においても三島の示唆を踏まえて、本作より早く発表された谷崎潤一郎の『春琴抄』との比較が行われてきた。

 三島が指摘するように、宮城道雄が本作のモデルである。百閒が1920年より箏の師匠とした人物である。従来の研究により、百閒自身の随筆との照合を通し、女弟子のモデルがかつて百閒にドイツ語を学んだ女学生であることが明らかになっている。内容面に関しても、宮城道雄の随筆との相互の影響関係も指摘されている。また、本作の読解にあたっては、百閒の表現技法がしばしば論点とされてきた。すなわち『冥途』以来、視覚的描写の精緻さを誇る百閒が、盲者の語りを導入した結果、視覚表現に制限が加えられた状態で叙述がいかに形成されているかが問題となる。

 本作の成立に先駆け、1930年代には随筆ブームが始まっていた。随筆の流行は、一躍百閒の名を文壇に知らしめたのみならず、宮城道雄も百閒の勧めをうけて口述筆記の形で随筆の創作を始めた。ここで目を止めたいのは、本作の語り手である盲者が、独力で晴眼の読者が読む文章を書く可能性をもたない存在だということである。言い換えれば本作においては、宮城が実践した盲人による口述筆記という行為が模倣されているのである。

 本発表では、先行研究で着目された作品のモデル問題を視野に入れつつ、口述筆記という観点からテクストの分析を進めてゆく。当時の箏曲の教授事情、モデルとなる宮城道雄の活動を追跡しながら、彼の口述筆記による随筆に照らし、盲者の語りが作中でどのように機能しているかを明らかにする。