発表要旨

中島敦「文字禍」論
大阪府立大学大学院博士後期 趙 楊

 中島敦の「文字禍」は言葉への懐疑を描いた作品として読まれてきたのが周知の事実である。中島の同時代認識と作品と関連付けて、「文字禍」が戦時中の言論弾圧、思想弾圧へのアイロニーであるとする論や、言葉の恣意性がもたらす不確かさにもかかわらず、言葉で表わされるものがあたかも現実そのもののように受け止められることへの疑問が作家中島の「写実の不可能」という文学観の表わしとする論など、「文字禍」における言葉への懐疑の解釈はさまざまである。
 しかし、文字の分解によってその意味が消失するように、あらゆるもの、乃至人間の日常の営み、全ての習慣まで、「同じ奇体な分析病のために、全然今迄の意味を失つて了つた」という老博士の発見についての考察は見当たらない。言葉の崩壊からあらゆる自明性を持ったものの崩壊を意識しはじめるという、文字の霊が老博士の上にもたらしたこの恐ろしい病気は一体何を意味しているのか――「文字禍」の解読の一つのポイントとして決して看過できない。
 ヴァレリーが「精神の政治学」(一九三二年)のなかで、ある本を読んだ時に頭に残った思いつき――不思議な一種の病気のため、世界中の紙という紙が壊滅してしまうことを述べている。「各種の確実なものや、各種の信じ得べきものを伝導する」紙の崩壊によって、すべての社会生活が崩壊すると仮説を立てながら、ヴァレリーは人間社会の精神性、人間によって組織された世界のか弱さを強調する。ヴァレリーのこの仮想と「文字禍」との間に、ある通底する志向が感じられる。
 中島の思想遍歴を表す一連の短歌のなか、「ある時はヷレリイ流に使ひたる悟性の鋭き刃身をきづつけし」という一句がある。また、中島の蔵書目録にある小林秀雄著、創元社刊行の『ドストエフスキイの生活』の最後に掲載された本の広告に、小林秀雄訳、ヴァレリー著の『テスト氏』も見当たる。これらの点から見て、中島敦ヴァレリーとの接点が確実なものである。ゆえに、ヴァレリーの「紙の崩壊」と考え合わせて、中島の「文字禍」の新たな読みを提起したい。


森田思軒の「我邦に於る漢学の現在及び将来」における政治性
ワシントン大学大学院東アジア言語文学部 ベンジャミン・ロゼンバーグ

明治二五年(一八九三年)一月「早稲田文学」の主催で行われた演説で新聞記者・翻訳家、森田思軒は当時の文学圏における漢学研究の状況について論じる。演説の内容は大きく「二個の問」から成り立っているが、「現在」と「将来」という観点を当時の文学状況と照らし合わせそこから読み取れる両者の矛盾を力説している。思軒は楽観的な態度を保ちつつ現在の「奮学問」とされる漢学は「新学問」である洋学に敗北を喫しつつも、将来的には近代的な美学的・彛倫的標準が漢学から作られていくという展望をも示すが、注目すべきなのはその展望を支えている一種の知識論なのである。本研究の目的はこの演説における「パラダイスロスト/パラダイスレゲインド」という比喩を目印として思軒の解釈学的な認識論の実態を明らかにすることである。これは思軒の歴史観や思考の枠組み、演説での「二個の問」に見える「文脈」―演説で挙げられている様々なテクストとの関係―を検討することにもなる。結論として言葉の「心」・「国民の常智常識」・学問的な「オーソリティー」の三つの概念を以って近代化した漢学を企てることで漢学の伝統的基礎とされる儒教から離れていく。つまり、思軒は自分の想像した未来の立場から新たな歴史を創ろうとしていた。そうした歴史観は明治十年代に流行した政治小説にも強く繫がっているが、これは思軒が当時の福沢諭吉等の所謂洋学者によって伝布された非政治的な言説と反対的な立場であったことを物語ってくれる。

宮沢賢治「文語詩稿 一百篇」を読む 松尾鉱山をめぐって
甲南女子大学 信時哲郎
 
宮沢賢治は昭和八年九月に没したが、その死の一ヶ月前に「文語詩稿 五十篇」と「文語詩稿 一百篇」を編んだ。つまり賢治文学の最終到達地点は文語詩であったことになる。しかし賢治が文語詩を書いていたことについてはあまり知られていない。隆盛とされる賢治研究でも、文語詩について言及されることは少なく、病床での手すさびにすぎないと低く評価され続けてきた。
近年、ようやく文語詩の作成過程や個々の作品に関する論が書かれるようになったが、賢治の文語詩はギリギリにまで言葉が省略され、圧縮して生成されることが多いため、何をテーマにしているのかさえもわからないものがあり、賢治の文語詩とは何であったのかについて最終的な判断するには、まだまだ時間がかかりそうだ。
そこで論者は、そんな賢治の文語詩を、まず「五十篇」を評釈するという作業から始めて、二〇一二年一二月にはひとまず成果をまとめ、現在は「一百篇」の評釈作業を進めている最中であるが、その過程で目に留まった松尾鉱山に関する賢治の思いについて考えてみたい。
松尾鉱山とは岩手県松尾村(現・八幡平市)にあった東洋一の硫黄鉱山で、明治末年から採掘が始まって活況を呈した。しかし、大正末から昭和初年にかけて鉱毒事件が明るみに出ると、補償問題にまで発展した。賢治が松尾鉱山を訪ねたという記録はなく、『索引』にも松尾鉱山は見当たらないが、「一百篇」所収の「〔腐植土のぬかるみよりの照り返し〕」の「下書稿(二)」には、「硫黄山光るかたよりたゞひとり/みめよき女きたりしと」とあり、おそらくこれは松尾鉱山で働く者を相手にする女性についての記述だろう。また、同詩の関連作品として「一百篇」所収の「市日」があるが、これも松尾鉱山と無縁ではないように思われる。
賢治は文語詩全編を通じて、「うたひめ」や「たはれめ」を取り上げ、その境遇に同情すると共に、彼女らを生んだ社会構造に批判の目を向けているが、ここにも松尾鉱山が経済的な繁栄をもたらしたものの、その活況の陰には炭鉱労働者を相手にする女性がいたこと、また、鉱毒事件があったことも背景になっていると思われる。
本発表は、一詩篇の読解に関する試みにすぎないが、賢治文語詩の目指していたもの、賢治文学の最終到達地点を考えるための、迂遠ながらも確実な一歩であると思っている。