発表要旨

太宰治「燈籠」の一考察 ―さき子・振り返りのモノローグ―
武庫川女子大学大学院博士後期課程 山田佳奈

昭和十二年十月一日発行の「若草」に発表された「燈籠」は、自己暴露をはらんだ前期から、他者との関わりを伴う安定した中期の作風へと向かう画期的な作品として、太宰作品の中でも重要な位置を与えられてきた。ところがこの評価に反して、論じられることはさほど多くない。
先行研究では、太宰の実人生を重ねた読みを皮切りに、神、語り、太宰の他作品との関連、コミュニケーションの問題等から作品が論じられてきた。しかし管見によるところ、何故さき子が恋人のために盗みを犯したのか、作品の核となる事件の原因を包括的に論じた読みがなされていない。本発表ではこの点に留意しつつ、その原因をさき子自身が振り返っていることを重視して解釈を進めていく。
具体的には、語りの構造を考察するとともに、さき子が語る内容を、両親、恋人、世間を軸に整理し、それらとさき子との関係を見ていく。その際、従来あまり論じられなかった、さき子が抱く両親への不満、恋人水野との過去が既に大切な思い出となっていることにも触れる。
これらの整理によって、作品最後の「静かなよろこび」は新たな様相をみせるだろう。さき子の家は電球を取りかえたことで明るくなり、夜の中で光を放つ。その明暗の差は、世間と自分たち一家の違いをさき子に思い出させた。しかしある瞬間、彼女はそうした環境の中で懸命に生きてきた自分たち家族を発見する。それは、自らの意識さえ変われば、人生が変わることをさき子が認識した瞬間でもあり、ゆえにさき子は「静かなよろこび」を抱く。また、更に重要な点は、この出来事を起点に彼女が「燈籠」の内容を語り始めたことである。つまりさき子の語りは、過去の自分を正面から受け入れるプロセスとして、さき子に認識されていたのである。
本発表では、こうした解釈を基に作品を丁寧に見直すことで、「燈籠」の価値を明らかにしていきたい。

「春の鳥」私論 ―更に意味あるについて―
伊丹市立鴻池小学校  山口実男

「春の鳥」は塩田良平の絶賛を浴び、現在でも人気の高い独歩の名作の一つである。この作品が何故人々の心を揺り動かす力があるのかその根源に迫りたいと考える。
 作品を読み解くうえでもっとも重要であると考えられる場面は第三章、城山で六蔵が馬乗にまたがり俗歌を歌っているところである。ここで詳しく分析したいのは①城山から見える美しい景観(自然)②モデル山中泰夫と六蔵の実像と虚構③語り手の想像からくる場面の転換④先生の覚醒、心の変化、の四つである。古い城跡から見える美しい眺望、ここで人里を離れ人界から隔離されたユートピアへ場面を移す。六蔵は馬乗にまたがり俗歌を歌った。先生は「空の色、日の光、古い城跡、そして少年、まるで画です。」と電流に打たれたようになり、従来の「哀れな少年」から「少年は天使」へとその見方に変貌を遂げた。③にある場面の転換は、それまでは実話であったものがここから語り手の想像が始まる。一人称での語りは自己の主観からくるものであり、主観であるが故に想像を生み出す。しかも①の大自然ユートピアを背景にしたからこそその想像は生まれた。
 絵画や彫刻などにしても実像とは異なる想像力を作り手が働かすから美しいなどと感じるものだ。「春の鳥」のこの場面にしても語り手が自然美、少年美、そして六蔵がまるで春の鳥になってしまったかのような想像的な語りが読み手を美の世界へ誘うのである。ここに人々の心を動かす本質があると考える。
 ②ではモデル山中泰夫の知的障害が自閉症であることを特定し、どうして実在の人物を虚構化する必要があったのかについて考察を試みたいと考える。


小説『宿命』における本文異同の問題
 ― 初出・新聞連載「宿命」と単行本『宿命』との比較において ―
大阪府立千里高等学校  福森 裕一
 
明治四十三年、信州で宮下太吉が逮捕されると、全国各地に大逆事件の嵐が吹き荒れた。
紀州和歌山の新宮を中心とする地域からも六名のものが検挙・起訴された。(二名死刑・四名無期刑)
だが、それらの者たちと密接な関係を持ちながら、ただ一人連座を逃れた者がいた。新宮教会の牧師・沖野岩三郎である。しかし、逮捕こそ免れたものの彼の周りには、絶えず尾行が付きまとい、手紙は検閲を受けるなど、自らが言うところの「恐怖時代」は以後七年間続くこととなった。
しかし、その様な状況の下、彼は被告となった者たちに対し、物質的・精神的援助を続けるとともに、事件の真相を少しでも明らかにしようと試みた。
大正五年、沖野は事件の真相を明らかにすべく、「大阪朝日新聞」社が募集した懸賞文藝小説に「宿命」を投稿し、二等入選を果たした。入選作は、「大阪朝日新聞」に連載される予定であったが、内務省警保局の内検閲の結果、掲載は認められず大幅な削除修正を余儀なくされた。そして、ようやく大正七年九月六日〜十一月二十二日にかけて「大阪朝日新聞」に連載された。
だが、その作品は投稿原稿とは大きく異なり、社会的側面の乏しい通俗的なものとなってしまった。この連載については、沖野自身も忸怩たるものがあったと思われる。その翌年には、新聞連載小説「宿命」を大幅に改定し、単行本『宿命』を出版している。
今回の発表では、大正七年の「大阪朝日新聞」連載「宿命」と大正八年発行の単行本『宿命』に焦点を当て、いかに大幅な異同がなされたか、また、この異同により沖野自身が事件の本質にどこまで迫ることができたのかを明らかにしたいと考えている。