発表要旨

城山三郎『辛酸』論
関西大学大学院博士課程前期課程 田村悠佑

城山三郎の『辛酸』は足尾鉱毒事件の被害を受けた谷中村と田中正造を描いた作品である。発表当時、平野謙江藤淳らの批評家たちによっておおむね「よく調べて書いてはいるがら、物語としては今ひとつの歴史小説」という評価を受けた。しかし、この評価は今では間違いであると発表者は考える。
その根拠として、大きく二つの検証を行った。一つ目に、二葉館に収められている城山が生前所有していた資料を史実とし、その史実と作品内容を比較した。二つ目に、城山が「後を継ぐ」と言っていた田中正造を題材とした大鹿卓『谷中村事件』との比較を行った。
『谷中村事件』は強制破壊までを描き、『辛酸』は強制破壊後から田中正造の死、そして谷中村民の立ち退きを描いている。時系列としては確かに城山の言うとおり「後を継」いでいるが、作中のエピソードでは『谷中村事件』ですでに書かれている、それも史実に忠実な内容を、史実と変えて再利用していることなどがわかった。これらの結果を元に、城山のヒューマニズムを考える。


芥川龍之介『歯車』論―「敗北」への道筋と「救い」の在り処―
関西学院大学大学院博士後期課程  奥田雅則

 昭和二年七月二十四日未明、芥川龍之介は『続西方の人』を脱稿した後、田端の自宅で致死量のヴェロナールとジャールを仰ぎ、その三十六年の生涯を自死という形で終えた。その際、遺稿として『或阿呆の一生』『闇中問答』などの数編の作品が残されたのだが、『歯車』も同じく遺稿として発見され、後の昭和二年十月に「文芸春秋」に掲載された(ただし、第一章「レエン・コオト」のみは、芥川の生前である昭和二年六月に「大調和」に発表されている)。
『歯車』の「僕」は、書き手作家芥川龍之介と非常に近しい存在としてたち現われてきており、芥川龍之介の相似形とも言うべき存在である。そして小説は作品末尾の「誰か僕の眠つてゐるうちにそつと絞め殺してくれるものはないか?」という「僕」の敗北への道筋を伝えるものであることから、芥川龍之介の敗北の人生を示すものであると言えるだろう。そのような意味で従来『歯車』という作品は「地獄に堕ちた芥川自身を描きあげた作品」として見做されてきたようである。
しかしながら、『歯車』は「僕」の敗北という側面のみを描く小説ではない。作中で「僕」とは一種の閉塞状況のなかを歩んでいる存在なのであるが、「僕」の姿からはその閉塞状況の外側への志向性が見て取れるのである。例えば「彼も亦僕のやうに暗の中を歩いてゐた。が、暗のある以上は光もあると信じてゐた。」という「僕」の言葉からは「光」を希求してやまない「僕」の心情が見て取れるし、「松林の上にかすかに海を覗かせてゐ」る風景に一時の安息を得ている「僕」の姿は、    現在の地獄的状況を超えた世界に救いの可能性を見ようとする「僕」の心情を伝えている。このようにして「僕」は、作中綴られる地獄的状況の中にあって、確かに救いの可能性の一端を垣間見ているのであると言えよう。
このような意味で『歯車』とは、「僕」の敗北へ至る道筋を辿る小説であると同時に、「僕」の姿を通じて「救い」の在りかが探られた作品であったと言えるだろう。言わば作品において描かれた「僕」の姿は地獄的世界の裏側にある救いの存在証明としての役割をも担っており、そしてこの救いの在り処の確認作業こそ芥川にとっての『歯車』執筆の意図であったのではなかろうか。本発表では『歯車』の作中に見られる救いの可能性について考察する。

椎名麟三ハンセン病ハンセン病療養所同人誌の選評からみえてくるもの―
名古屋大学大学院博士課程後期課程   西村峰龍

 ハンセン病療養所同人誌からは、北條民雄•島比呂志などのすぐれた作家を生み出してきた。彼等は療養所同人誌の文芸特集号への作品の掲載を目指し、同人と切磋琢磨し、腕を磨いたのである。彼等の作品の選評を受け持ったのは川端康成豊島与志雄など著名な非ハンセン病作家達である。椎名麟三もそのような非ハンセン病作家達の一人である。椎名は昭和二十五年にハンセン病療養所全生園の同人誌『山櫻』の選評を引き受ける。その後、ハンセン病療養所恵風園の同人誌『菊池野』でも山本健吉阿部知二谷川雁等とともに選評を引き受け十年間に渡って療養者の作品を評価し続ける。従来の先行研究においては、このような事実は重視されておらず、齋藤末弘の最新の評伝『椎名麟三』でもふれられていない。そこで本発表では、従来の先行研究では明らかにされてこなかった椎名のハンセン病療養所同人誌における選評活動の詳細を検討した上で、椎名のハンセン病に対する認識を明らかにする。