発表要旨

大庭みな子『浦島草』論
関西学院大学博士課程前期課程 小石川彩

 『浦島草』は一九七七年に講談社より刊行された書き下ろし長編小説である。デビューしてから約一〇年、初めてヒロシマでの原爆体験を核に置き書かれたこの作品は、大庭みな子自身が代表作としていた作品である。
しかし、核をなしている原爆体験を語る泠子は『浦島草』の主人公ではない。『浦島草』全一〇章を通して登場するのは、帰国子女の菱田雪枝である。雪枝は一二歳から一一年間アメリカへ留学し、二三歳で初めて帰国した。東京に住む異父兄・森人に招かれた家は、内縁の妻である泠子が女主人として取り仕切っており、戸籍関係と血縁関係がすれ違う五人が疑似家族を営んでいる。この「泠子の家」の核をなしている出来事が、泠子の原爆体験である。泠子は雪枝に原爆を「人間の欲望」の結果として語る。その後、東京・ヒロシマ・故郷の新潟県蒲原をめぐり、さまざま人物から「人間の欲望」を雪枝は見聞きし、最終的に日本に残り「自分の根のからみ」を見つめることを雪枝は決意する。
『浦島草』で語られている原爆が泠子によってどのように語られているのかを分析し、聞き手である雪枝がどのようにそれを受け取り、自身へとつなげていくのかを明らかにしていきたい。



軍隊小説『遁走』改稿 安岡章太郎の戦争責任
神戸松蔭女子学院大学非常勤講師 金岡直子

 本年一月に亡くなった作家・安岡章太郎の軍隊文学『遁走』(一九五七・五・講談社)をとりあげる。『遁走』には原型的作品「旅愁」(一九五四・六『群像』)「遁走」(一九五六・五『群像』)「黄塵」(一九五六・一二『文学界』)があり、その異同を試みると、大幅改稿の多さから、安岡章太郎が『遁走』という作品に対して、そして戦争を文学に残す記録の重みに対して並々ならぬ気概をこめていたことがわかる。安岡の加筆作業は、なぜこのように執拗であったのか。その意図として、安岡が知識人としての自覚を持ちだしたと思われる、一九五四年当時の社会状況、および言論状況を確認し、そのつながりのなかで一九五六年に再燃した「戦争責任」論との関連を示す。
一九五六年に再燃した「戦争責任」論は、敗戦後から活発に論じされてはいたものの、論戦の一本化はなされないまま、一九四六年六月に小田切秀雄が『新日本文学』誌上にて指摘していたように〈吾々自身の問題〉として受けとられていっていた停滞と、吉本隆明武井昭夫の二人によって、戦後の戦争責任追及者にまでその責を問う、二通りの流れがあった。この二通りの「戦争責任」について、すでに前年に芥川賞を受賞し、文学界に認められていた安岡もまた、自身の戦争責任を果たそうと『遁走』を描いたのではないか。加えて、安岡の知識人としての自覚がその行動にあるのではないか。
吉本隆明が抵抗作家・転向作家たちに懐疑的であるように、安岡もまた自身の前世代に懐疑的である。彼らとは違う視点での言論活動を始めようとする自意識の萌芽が『遁走』の改稿作業の中に基底していたことを論じていきたい。


【特集 阪神間の文学】

特別講演 谷崎潤一郎阪神間時代〜転居と作品〜
     
芦屋市谷崎潤一郎記念館 副館長
武庫川女子大学 教授
たつみ都志

 一九二三年の関東大震災によって関西に避難してきた谷崎潤一郎は、一時逃れの京都移住のあと、阪神間が気に入って、足かけ二一年間在住中一三回も転居して、珠玉の名作を数多く残した。またこの間は、最初の妻・千代と離婚(千代は佐藤春夫と結婚)、二番目の妻・丁未子との結婚―離婚、そして最後の妻・松子との遭遇―結婚という、私生活の上でもめまぐるしく変化した時代でもあった。この阪神間在住二一年間がなければ、谷崎文学の成熟はなかったと言っても過言ではない。
「文学の立ち上がった空間」という問題意識のもとで作品を解読してきた私は、谷崎の関西での足跡をつぶさに調査して、それを後世に残すことを使命として仕事をしてきた。その成果の一つが魚崎「倚松庵(いしょうあん)」の移築保存である。一方、阪神大震災で全壊した「鎖瀾閣(さらんかく)」は、一七年間の復元運動が実を結んで復元直前までこぎつけたものの、付近住民の反対で断念せざるを得なかった。そのストーリーにも言及したい。
二〇一五年七月に没後五〇年、二〇一六年に生誕一三〇年を迎える谷崎潤一郎を、この機会に再認識していただき、芦屋市谷崎潤一郎記念館の実情もお聞きいただければ嬉しい。