第50回 阪神近代文学会 2015年度冬季大会

第50回 阪神近代文学会 2015年度冬季大会

【 日 時 】 2015年12月12日(土)13時30分
【 会 場 】 神戸大学文学部・B棟3階331教室

☞ 会場へのアクセス
神戸大学文学部・六甲台第2キャンパス(神戸市灘区六甲台町1-1)
徒歩:阪急「六甲駅」から約10分。バス:阪神御影駅」・JR「六甲道駅」・阪急「六甲駅」から、神戸市バス36系統乗車「神大文理農学部前」下車、徒歩4分

開会の辞(13時30分〜):神戸大学大学院 梶尾文武

研究発表

大江健三郎万延元年のフットボール』から中上健次「一番はじめの出来事」へ ―「想像力」と「ほんとうのこと」をめぐって:神戸大学大学院博士前期課程1年 松田樹

文学における電話前史 ―遅塚麗水『電話機』に描かれた電話―:名古屋大学大学院博士後期課程1年 黒田翔大

武田泰淳「幻聴」論 ―「現実」の「フィクション」化をめぐって―:同志社大学大学院博士後期課程1年 藤原崇雅

総  会

閉会の辞武庫川女子大学 山本欣司

懇 親 会(18時〜):六甲苑(中華料理)阪急六甲駅北口そば ℡050-5797-1611:会費5000円(院生・学生3500円)

※大会・懇親会の出欠を、同封のハガキにて 11月28日(土)までにお知らせ下さい。
※当日の午前10時30分より、運営委員会をB棟3階333演習室にて開催します。尚、会議終了後の昼食は事務局が用意致します。

♢♦『阪神近代文学研究17』(2016年5月発行予定)掲載論文を募集します♦♢
希望される方は、論題ならびに400字程度の要旨を添えて、メールまたは郵便で事務局にお申し込み下さい。申し込み期限は12月末日、審査の上、掲載をお願いした際の原稿締め切りは2月末日です。ただし、原稿を頂いてから改稿等をお願いする場合があること、執筆者は20冊買取分として、15,000円をご負担頂きますこと、あらかじめご了承いただきますようお願い申し上げます。

発表要旨

大江健三郎万延元年のフットボール』から中上健次「一番はじめの出来事」へ―「想像力」と「ほんとうのこと」をめぐって
神戸大学大学院博士前期課程1年松田樹
一九六五年に上京した中上健次は、新宿を中心とする新左翼の政治闘争にシンパとして参加した。戦後民主主義から反帝闘争へという新左翼の既成左派批判に呼応して、この時期の中上はかつて親炙した大江健三郎の政治理念を意識的に排斥し、「平和と民主主義」の戦後イデオロギーに破産を宣告する。
このような六〇年代後半における中上の新左翼への接近を捉える上で着目すべきは、荒岱介(日向翔)との接触である。ガストン・バシュラールの『蠟燭の焔』に因んで、当時「日向翔」とも名乗った荒は、早稲田の地下活動において知遇を得た中上にバシュラールの詩論を紹介した。「一番はじめの出来事」は、戦後民主主義の破綻による政治的な喪失感から自身の少年期に題材を取った中上のデビュー作である。この牧歌的な物語は、物質的想像力論をはじめとするバシュラールの諸詩論に基づいている。
作者の兄・木下行平の自殺を小説としてはじめて形象化したこの作品の構造は、大江健三郎の『万延元年のフットボール』に依拠している。「本当の事」を主題とする大江の同作をもとに、中上はエッセイにて実兄の自殺を「僕の「本当の事」」と評し、この主題をめぐる兄と弟の対立構造を同作から自身のデビュー作に転用した。しかし、大江と中上の両作品では「想像力」という概念の位置付けが異なっている。大江は自らの文学論のキーワードである「想像力」を『万延元年のフットボール』では、サルトルの理論を敷衍して「本当の事」を乗り越えるものとして位置付ける。対して大江の影響下から脱却を図る中上は、デビュー作「一番はじめの出来事」にバシュラールの詩論を援用し、そこで現実の「ほんとうのこと」に抵触しない主人公「僕」の稚拙な夢想として「想像力」を定位する。本発表では、七〇年前後の「政治と文学」をめぐる言説の動向を踏まえながら、「一番はじめの出来事」における兄弟間の対立構造、および「想像力」の位置付けを『万延元年のフットボール』と比較
しつつ検討することで、中上健次の作家としての出発点に存在する大江健三郎への対抗意識を中心に考察したい。

文学における電話前史―遅塚麗水『電話機』に描かれた電話―名古屋大学大学院博士後期課程1年黒田翔大
遅塚麗水は『電話機』を一八九〇年九月三〇日から同年十月八日まで、全二十六回に渡って『報知新聞』に連載した。明治期において未来を示唆する小説は多く登場するが、『電話機』の発表は電話事業が開始される一八九〇年一二月一六日に先立ってのことであり近未来を舞台にしている。
電話事業は順調にスタートを切ったわけではない。電話加入者を募集するのに苦労し、想定していたよりも少ない加入者で始まった。それは、当初において電話の利便性を受け入れることに対する障害があったからである。例えば電話は非常に高価な品物であったため、電話に加入するよりも丁稚を雇う方が安上がりであった(そのため電話料金を引き下げることになる)。しかも、電話は声しか届けることができないが、丁稚であれば荷物を届けることも可能である。また、電話で相手と繋がることによって、コレラなどの伝染病までもが伝わって来てしまうのではないかという迷信もあった。これらの理由が電話普及の妨げに繋がることになった。
以上のような電話を敬遠する理由は、電話の料金面であったり科学的根拠の無い迷信であったりするのだが、電話が人々の生活に普及することによる影響をより広い視野を持って指摘したのが遅塚麗水『電話機』である。『電話機』では電話が普及した近未来社会の問題性について触れている。その中でも特に、電話で会話をする際に媒介する必要のある電話交換手の存在に焦点を当てている。交換手が電話の接続を恣意的に行うことにより人間関係に亀裂が入ってしまう。また、交換手の存在のみに還元することのできない問題も扱っている。
電話事業が始まる以前において、遅塚麗水は『電話機』の中で電話の様々な問題性を指摘している。それは、局所的でも迷信めいたものでもなく、人々の生活全般に関わる具体的かつ現実性を持つものである。本発表は、電話事業開始以前に執筆された『電話機』の持つ電話に対する文学的想像力を明らかにすることを目的とする。

武田泰淳「幻聴」論―「現実」の「フィクション」化をめぐって―同志社大学大学院博士後期課程1年藤原崇雅
武田泰淳「幻聴」は、『新潮』昭和二七年七月号に掲載された短篇小説である。昭和三〇年九月発行の新潮文庫に収録されるなど、同時期の泰淳文学の中でも比較的知られていた本作だが、研究史においてはあまり取り上げられてこなかった。
しかし本作は、ある作品系列に属していることから、泰淳文学において重要な位置を占めていると考えられる。泰淳は、本作を初めて収録した刊本『武田泰淳集』(河出書房、昭27・12)の「あとがき」他で、「幻聴」と「約束の身体」(『中央公論』昭24・8)、「淑女清談」(『改造』昭26・5)、「美貌の信徒」(『中央公論』昭27・2)、「愛と誓ひ」(『別冊文芸春秋』昭28・2)を同系列の作品だと述べ、それらの作品において「現実」から「フィクション」を「抽出」する手法を用いたことを詳らかにしている。昭和二〇年台中頃から後半にかけて、泰淳は現実を虚構化する手法を用いて小説を書いていた。
この作家の発言を踏まえ、本発表では「幻聴」の舞台や登場人物がどの程度、現実にあった事象を基に創作されたのかを検討したい。特に注目するのは、本作の舞台である「A工場」と、登場人物「棄三」と「英子」である。A工場については作中、所在地や建物の様子が詳しく語られており、モデルのあったことが推測される。また、棄三と英子はともに幻聴のあることが原因で周囲の人々から「精神病者」として扱われており、戦後増えつつあった精神病をめぐる言説との共通性が析出できる。この二点を、ある印刷会社をめぐる回想や、精神病理学者の発言を参照しつつ考察し、その上で本作の主題を明らめたい。
以上の試みは、昭和二〇年代において作家が、工場や精神病といった現実の事象を、創作の際に用いた事由を詳らかにするだろう。また、遺書の履行(「約束の身体」)、戦時下における信念(「淑女清談」)、キリスト教の信仰(「美貌の信徒」「愛と誓ひ」)など一見、素材同士の類似性はない同作品系列が、主題レベルでは共通していることについても論及する。