第52回 阪神近代文学会2016年度冬季大会 発表・講演要旨

第52回 阪神近代文学会2016年度冬季大会 発表・講演要旨
寺山修司戯曲「身毒丸」論 ―伝統と土俗の継承と変形        劉夢如
 一九七八年六月、寺山修司作・演出の「説教節の主題による見世物オペラ 身毒丸」(以下「身毒丸」)は新宿で公演された。近世の説経節「信徳丸」(一六四八年)と「愛護若」(一六六一年)を題材とするこの戯曲は、「信徳丸伝説」「血の因習」「母神」などの「民族の記憶」と「現代的解釈」、見世物、柳田国男などのさまざまな要素を寄せ集めている(「作品解題」、『寺山修司著作集 第3巻 戯曲』クインテッセンス出版、二〇〇九・四)。主人公しんとくは母を亡くした。その父が女を売る楽屋の女を後妻として娶った。亡母が恋しいしんとくは継母を憎しみ、継母に呪われるが、最後、しんとくと継母はお互いに対する思いを告げ、二人は母子関係であるにも関わらず、男女関係をも結んだのである。
 発表ではまず、「身毒丸」のこのようなあらすじを原典の説経節と比較し、「ドラマ」と「歌謡」が結合する「オペラ」という形式を議論する。次に、「英雄流離譚」の類型と繋がりながら、少年と青年の役を兼ねる主人公しんとくの「流離」と「盲目」の運命を分析する。また、「蛇娘」「鬼子母神」「徳利娘」「遊女」という複数のイメージを重ねる継母のイメージを、古典文学と古典に対する近代の解釈に基づいて考察する。さらに、登場人物「柳田国男博士」と、異界に通じる「穴」や神話に原型がある「輪形」というイメージを民俗学的な視点から取り上げる。最後に、疎外される「英雄」、差別される「遊女」「畸形」などのイメージを通して、本作における「見世物」の意味を捉え直す。
 まとめると、「身毒丸」は下記の三点によって成立する。①説経節などの古典文学や、柳田国男民俗学からの直接の継承、②古典文学に対する同時代の国文学者の松田修の解釈と、同時代の文化人類学者の山口昌男が提起した「道化」に対する解釈の参照、③「見世物」「近親相姦」「母胎回帰」という寺山的な嗜好という三つである。本発表は、上記の三点を踏まえながら、「身毒丸」が参考にした先行作品を明らかにした上で、各要素のコラージュのような組み合わせ方と変形をテクストに基づいて検討する。


森鷗外と黄禍論                 李凱航
 1903年森鷗外(1862-1922)は二度人種に関わる講演を行った。『人種哲学梗概』(6月6日)と『黄禍論梗概』(11月28日)である。それによって、森自身の関心を示した一方、「時代趨勢の喫緊的問題」(『鷗外全集』38巻)も窺えるだろう。森自身の関心は、ドイツ留学時代の差別体験、医師という職業絡みのもの(医学、人類学、衛生学)、田口卯吉(1855-1904)と姉崎正治(1874-1949)による日本国内での研究が不十分なことへの憂いなどから生じている。「時代趨勢の喫緊的問題」というのは、北清事変において日本兵士は初めて白人の同盟軍としての経験をし、日露戦争において黄白人種間の大戦争を経験したという歴史的な転換である。そのため黄禍論は、日露戦争前の日本政府の資金調達、そして戦後の条約改正などの諸問題にも関係している。これらが、森の講演の背景である。
 本稿は、特に『黄禍論梗概』に焦点を絞り、森の黄禍論への対応を、森と黄禍論の関わりの淵源を明らかにするという観点から、考察したい。『黄禍論梗概』というのは、ドイツの歴史家Hermann Von Samson-Himmelstjerna(1826-1908)の著述『道徳問題としての黄禍論』(Die Gelbe Gefahr als Moralproblem, 1902)の紹介と批判である。Samson-Himmelstjernaの論述の主要な内容は、主に中国を賛美し、日本を非難する。これを読んだ森は、日清戦争後の「三国干渉」の教訓をそれと繋げて思わざるをえない。そのため、「敵情の偵察」(『鷗外全集』25巻)という気持ちで、森は日本の「有為の士」を激励し、「黄禍論」を潰そうと呼びかけている。しかし、「吾人は嫌でも白人と反對に立つ運命」(同上)を自覚した森だが、同じ「黄色人種」の中国人の運命はこの大日本帝国の軍医の講演であれ、戦場の日記及び書簡であれ、徹底的に見失っていた。従って、今まで「反人種主義」として捉えられていた『黄禍論梗概』をもう一度見直す必要があるではないか。


文芸時代』に見られる芥川龍之介 ―新感覚派の直面する問題点と合わせて―  李慧珏

 芥川龍之介の晩年(大正末期から昭和初期)において、作家の世代交代が到来したことを告げるように、新人が発表の場を求め、同人文芸雑誌が大量に出現した。本発表で取り上げる同人雑誌『文芸時代』(大正十三年十月〜昭和二年五月)もその風潮の中で発刊された。二年半の発行期間に、同人川端康成横光利一稲垣足穂などの作家の成長を支えたほか、新感覚派と呼ばれることとなるモダニズム潮流を作り出すなど重要な役割を果たした。後に昭和の文壇に花を咲かせる作家達の巣立ちの場という点から考えれば、このような『文芸時代』における若い作家たちの芥川に対する見方を考察することは、大正期文学を代表した作家、芥川の昭和初期の位置づけを明らかにする手掛りとなるのである。
 『文芸時代』において、同人内の作家十数名に加え、同人外から定期的に寄稿した評論・随筆の中、芥川に言及するものが四十三篇にも及ぶ。これらの評論において、芥川を同人の志向と関与しながら論じられる傾向がある。なぜこれほど多くの言及がなされたのか。その背景として、「新感覚派」という名を外部から与えられたこと、更に、創刊号に発表された横光利一の「頭ならびに腹」が批判を受けたことを発端に論争が始まるなど、『文芸時代』の若い青年が彼らの文学的立場を鮮明化しなければならない状況にあったことがある。芥川を論じることはこの文学的立場の表明にかかわっていたと考えられる。この頻繁に行なわれた言及は、文学青年達の自負とプライドを反映する以上に、芥川の文壇における存在感を端的に示している。そこで、本発表は『文芸時代』の誌面における芥川に対する評論を列挙しながら、『文芸時代』における芥川評価に関わる論脈の形成理由をみていきたい。


越境する想像力 ―「外地」から見る日本近代文学―       小泉京美
 「日本近代文学」という名称やその内実が問われるようになってすでに久しい。ポスト・コロニアル・スタディーズやカルチュラル・スタディーズの潮流は、従来の概念規定の見直しを迫り、「日本語文学」や「世界文学」という呼称も今日では定着したといってよいだろう。日本文学をとりまく多文化・多言語的な状況をふまえて作品の読み直しが進んだが、そもそも、森鷗外夏目漱石に始まり、近代以降の作家が海外渡航(留学・観光・従軍・移民)による異文化体験に基づいて自らとその文学的営為の輪郭を形作ってきたことは改めて強調されてよい。
 そして、作家たちの渡航体験の動機や目的ともなった近代以降の日本をめぐる地政学的な勢力図の書換えは、文学的な想像力に「外地」という空間を新たにもたらした。中でも、帝政ロシアが清から租借し、日露戦争後に日本に租借権が移譲された大連は、中国・ロシア・日本の文化が混ざり合いながら、多文化的な植民都市として近代化が進んだ。その混淆的な文化状況を反映して、「内地」の前衛詩運動が最盛期を迎える1924年に発行された日本語の詩誌『亞』は、大連を舞台に日本文学の伝統と距離を保ちながら前衛的な詩的言語の実験を行った。
 文化の越境がもたらす多様な状況をふまえて、「外地」で展開された「前衛詩」という「ローカル」で「マイナー」なジャンルから、日本という場所、あるいは日本近代文学が成立する条件について考えたい。