第53回阪神近代文学会 2017年度夏季大会 発表要旨

発表要旨

芥川龍之介お富の貞操」論―物語空間と人物形象をめぐって
立命館大学大学院博士後期課程 周倩

 「お富の貞操」は1922年「改造」の5月と9月の二回にわたって掲載された、〈一劇二幕〉の構造を持つ短篇小説である。この作品に関する同時代評には、主人公の心理描写に焦点をあてて、それを「抽象的」「概念的」と批判するなど、否定的な評価が多かった。だが作品の構想段階で、芥川は上野戦争前日の天候、町家の状況及び立ち退いた町人の服装などを確認している(1922年3月31日付塚本八洲宛書簡)。また、これらの要素は第一幕の描写に取り込まれている。したがって、この書簡を取り扱う従来の研究は、「物語に現実性をあたへる為に、背景や事実には動かない所をつかまうとした」(吉田精一「春服」『芥川龍之介三省堂1941年12月)と評するわけであるが、しかし、この書簡から分かるのはかえって、これらの要素、特に〈雨〉というモチーフが作品の成立上、いかに重要あるいは不可欠か、ということではないか。
 本発表では、まず、第一幕における〈雨〉のモチーフに注目し、雨が密室的空間の構築及び新公の心境を描く際果たす役割を析出してみたい。続いて、〈水〉のイメージと合わせて検討し、上野戦争前日という歴史的な時間のなかで、一幕における〈新公とお富〉の物語を解釈してみる。また、第三回内国勧業博覧会の開会日というもう一つの歴史的な時間に、再び会った二人の間で見られる身体性の変容に注目し、下谷町、上野公園、広小路、銀座、横浜など、テクストにおける様々なトポスとそれらをめぐる語りの空白との間で織り出された物語の内実を考察したい。更に、〈貞操〉、〈処女〉、〈レイプ〉など、セクシュアリティの問題が明確にテクストによって提示されていることに鑑みて、以上の考察のもとで、作品発表当時の時代コンテクストと照合しながら、本作品が発表される一年前の芥川の中国旅行をも視野に入れ、作者の創作意図を検討してみたい。


佐藤春夫と『聊斎志異』―『支那童話集』をめぐって
大阪大学大学院博士後期課程 陳潮涯

 『聊斎志異』は狐、妖怪、鬼の話を計490篇以上収める、中国清代蒲松齢が著した怪奇短篇小説集である。『聊斎志異』は江戸末期日本に伝わり、明治期になって初めて国木田独歩蒲原有明などの作家によって翻案または一部を省略しながら翻訳され、大衆向けの怪談話として紹介された。大正期に至ると、『聊斎志異』の本格的訳書が次々と出現し、また『聊斎志異』の話を素材にして自分の創作に取り込んだ作家も現れた。大正期から昭和初期にかけて、『聊斎志異』はようやく中国古典文学の一代表作として定着したのである。
 特に注目されるのは、子供向けの『聊斎志異』翻訳も同時期に現れていた点である。その中の代表作が佐藤春夫の『支那童話集』(昭和4年、アルス、計9篇の『聊斎志異』訳を収録)である。アルスの「日本児童文庫」刊行企画で佐藤と芥川龍之介はともに『支那童話集』の執筆依頼を受けたが、芥川の自殺のため佐藤が一人でこの訳書を完成させた。『支那童話集』の前に、佐藤は大正11年から既に『聊斎志異』の翻訳に着手しはじめ、昭和26年まで計20編の話を訳しており、当時まだすくなかった『聊斎志異』の愛読者の一人と言える。佐藤の『聊斎志異』訳はほぼ逐語訳であるが、英語訳、ドイツ語訳を参照する訳文があり、また編集方針にしたがって原典を添削した訳文もある。特に『支那童話集』の場合、佐藤は『聊斎志異』を少年少女向けの話に変容させようと工夫した。当時人気があった「日本児童文庫」の一冊として、『支那童話集』は『聊斎志異』の普及に大きな役割を果たした訳書と思われる。しかし今まで佐藤と『聊斎志異』の相関研究は、彼の美意識を反映する『玉簪花』、「愛妖記」などの翻訳に集中しており、佐藤の童話観を反映していると思われる『支那童話集』にはあまり触れていない。今回の発表では『支那童話集』の出版事情を踏まえながら、佐藤訳の特徴を考察し、当時の佐藤の『聊斎志異』に対する捉え方とともに、彼の童話観を分析したい。


「斗南先生」論―〈三造〉と〈斗南先生〉との関係性について
立命館大学大学院博士後期課程 種茗
 
「斗南先生」は中島敦の伯父である中島端蔵が亡くなった後に創作された作品である。創作時間が確定できないが、昭和七年(1932年) から十年間にわたって書き続けられたと推測されている。中島敦の作品では、〈三造〉を主人公とする作品は「斗南先生」をはじめ、「プウルの傍で」「北方行」「狼疾記」が挙げられる。時間の順では、「斗南先生」は〈三造〉シリーズの初期の作品である。作品の第一章から第六章まで、〈三造〉が〈斗南先生〉の「奇行奇言」を厳しく批判している。実生活での無能力と古い時代精神の持ち主との矛盾、〈斗南先生〉と似ている性質を持っていることなどが〈三造〉の嫌悪を招き、〈三造〉がそれを容赦なく批判し、〈斗南先生〉が亡くなる前にすら、彼の性質を「客観的に」検討しようとする。しかし、文尾に「十年経」った後に書かれた「付記」では、〈三造〉の〈斗南先生〉に対する評価が明らかに変化している。「支那分割之運命」などの学問の価値が見直され、自分の伯父に対する態度が最初の嫌悪から哀惜へと変貌が見られる。
 本発表では、時間順を縦軸に、実生活と芸術との関係を横軸に、作品を考察したいと思う。まず、時間の順を追って、実生活で捉えられた斗南先生の人物像と「付記」で認識しなおされたそれとの違いの中で、〈斗南先生〉に対する〈三造〉の見方の変化に着目し、両者の関係性を考察する。次に、芸術と実生活との方面から、〈斗南先生〉に対する評価の変化に視点を置き、〈三造〉の認識を分析する。その他、作者の中島敦が「斗南先生」を書き続けた「十年」の間に、「北方行」などの作品でも、実生活と芸術との関係に触れているため、作家としての人生の中で検討されつつある主題の一つだと言っても過言ではない。「斗南先生」の考察を通して、自分の伯父への嫌悪から哀惜への変化、芸術と実生活との関係についての認識の変化の中の中島敦の考えを垣間見、作者の創作意識をまとめたいと思う。