第54回 阪神近代文学会2017年度冬季大会発表要旨

江戸川乱歩『パノラマ島綺譚』論 ―ユートピアの構築と崩壊
関西学院大学大学院博士後期課程 穆 彦姣

 『パノラマ島綺譚』は、雑誌「新青年」において大正十五年十月から翌昭和二年四月までに、二回の休載を挟んで計五回連載された長篇小説である。この作品に対して、乱歩自身はさほど高評価を与えていないが、人見と菰田における「双生児」の設定・人見の変装・海底トンネルにあるレンズ仕掛けや裸女たちが演出したエログロの世界など、乱歩作品の代表的なモチーフが随所に顕れているため、同時代評が比較的に少なかったものの、近年では、江戸川乱歩の代表作のひとつとして認められつつある。
 本作はまず、貧乏書生・人見広介が自分と瓜二つの大金持ち・菰田源三郎の訃報を受け、彼に成りすまし、その莫大な財産によって自分のユートピアを建設する計画を思いつくところから始まる。作中において、人見がユートピアの夢想を語る際にポーの『アルンハイムの地所』について言及したこともあり、本作と『アルンハイムの地所』、及び谷崎潤一郎の『金色の死』との親近性は、すでに先行研究によって指摘されている。しかし、『アルンハイムの地所』や『金色の死』に描かれた理想郷と違い、人見におけるユートピアの具現化であるパノラマ島は、本物の庭園ではなく、錯視効果を原理とした「パノラマ」という、科学技術によって生まれたカラクリをベースとしている。
 ユートピアの建設と同時に展開されているのは、源三郎の妻・千代子に正体を気付かれたために彼女を殺害した人見が、探偵の北見小五郎に一連の犯行を暴かれ、花火とともに空に打ち上げることによって自決を果たしたという、探偵小説らしいプロットである。興味深いのは、千代子の屍体が埋められた場所がパノラマ島の中央の大円柱であったことである。屍体の隠し場所として、人見はなぜ自分のユートピアの中心部を選んだのだろうか。人見の人物造形及び彼におけるユートピアを紐解くためには、千代子の本作における役割を解明する必要があると思われる。
 本発表は、以上のような問題意識から、人見におけるユートピアの内実について分析し、ユートピアの造形と物語の展開の関係性を検証することを目的とする。



変貌する太宰治津軽』 ―パラテクストから読解へ
大阪大学大学院博士後期課程 小田桐 ジェイク
 太宰治の第四書き下ろし長篇作品『津軽』は、昭和十九年十一月に、小山書店によって発行される。当初は出版社の企画である「新風土記叢書」の第七冊目であった。つまり、『津軽』は戦時中の文学であり、同時に「新風土記叢書」の一部であった。しかし、昭和二十二年四月に、前田出版社によって再版された表表紙には「長篇小説」とあり、「新風土記叢書」であった初版本とは異なる枠組みに入れられる。本文も、GHQ・SCAPのメディア規制の関係で作家自身の自己検閲で改訂された。そして、太宰治の没後すぐ、昭和二十三年十月に、再び小山書店によって再版され初版本を基盤に「新風土記叢書」に戻される。その後、今日に至って『津軽』は全集や作品集、文庫本などの様々な姿を持つようになってきた。
 本発表は『津軽』の七十年以上にわたる変遷を整理した上で、「玄関ホール」―書名をはじめ、著者名の位置とフォント等、叢書の属性、装幀のデザイン、扉と外側との差異、目次、また他のメディア(例えば、口絵(写真)や挿絵等)―を中心に分析する。ジュネットの「パラテクスト」概念を参照しながら、まずは初版本の枠組みとその読解を見る。そして、前田版の読解への影響と新しい枠組みを徹底的に分析する。次に見るのは、太宰治の没後すぐの再版や収録とそれにおける読解である。また、文庫本化された『津軽』のジャケット、つまり装幀デザインがどのように変化してきたのか、その装幀デザインと読解の関係を分析する。作品集や文庫本に収録されている「解説」というものに、読解へのフィルターがどのように設定されるのかを考察する。最後に英訳された『津軽』とその「玄関ホール」が本作にどういう影響を与えるのかを明らかにする。
 本発表では、『津軽』の書誌情報と、『津軽』の変遷を分析することによって、「玄関ホール」が読解とどのような関係を持つのかを問う。



小松左京日本沈没』論 ―核時代の想像力
神戸大学大学院博士前期課程 徐 翌

 一九六四年に執筆が開始され、九年掛りで完成された『日本沈没』は、七三年に光文社カッパ・ノベルズから出版された。上梓後まもなく上下三八五万部の売り上げ記録を誇るベストセラーとなり、版を重ねて小松左京の代表作となった。堀晃(小学館文庫版解説、06・1)が言うように「地学の啓蒙書」・「パニックSF」・「ポリティカルSF」などといった多様な受け止め方ができ、日本論・日本人論として読むことの可能な、多面性を持つ作品となっている。現代でも読み継がれ、重版・リメイクされ続けている。
 『日本沈没』の現在時は一九七×年という近未来に置かれている。日本が二年で沈没すると判明し、政府は日本人救出の「D計画」(ディアスポラ)を発足させる。最後に日本列島が完全に水没してしまうというあらすじである。しかし水没した日本は原爆の危機を免れることができた。実は、作中では、核への言及が極めて少ないのが不自然に読める。米ソ冷戦下、核戦争の危機が勃発する。「核兵器の危機を認識しなければ」「人間的なアプローチ」(『核時代の想像力』新潮社、70)が不可能だと強調する大江健三郎の言説は、当時核とともに育つ想像力の特質を端的に示している。
 本発表では、そうした当時の言説空間の形成を視野に入れつつ、まず従来の各版元と定本との校異を行い、改稿の背後に潜む「核の隠蔽」という問題を指摘する。また、本作に見られる「帰国子女」「戦後青年」満州からの「引き上げ老人」などの異なるアイデンティティを持つ異なる世代の日本人のイメージに注目し、核時代にSFという装置を通して立ち上げられた当時の小松の「国家論」「日本人論」を素描する。
 3・11東日本大震災後に再びブームが起きたのも、本作が核時代を背景としているからである。この発表では、戦後という時代の文脈を踏まえながら、『日本沈没』を通じて、「核」に触発された日本SFの想像力を捉え直す。総じていえば、①当時の原爆危機によって構築された言説空間を整理した上で、日本SF界を牽引した小松の想像力を確認する。②「核」と「カタストロフィ」との連動性を『日本沈没』のテクストを引きながら、検証していく。③以上の分析に基づき、小松の「日本(人)論」を検討し、イデオロギーが欠けるとされるSF的創作法を借用することで逆説的に成立した新しい政治小説として本作を再評価する。