久坂葉子の人と作品 その本質を探る

久坂葉子の人と作品 その本質を探る


   神戸親和女子大学名誉教授 佐藤和夫

 二十一歳で夭折した作家・久坂葉子(本名 川崎澄子)は昭和六年神戸市生田区(現・中央区)に生まれた。この年は世界的大恐慌に陥り川崎造船所もそのため大打撃を被り窮地に追い込まれた。このことが久坂の後の人生に少なからず暗い影を落とす結果となった。曾祖父は川崎造船所(現・川崎重工業)創設者川崎正蔵、父は同社専務川崎芳熊であつた。作品発表のきっかけは昭和二十四年夏、自らの作品「港街風景」を手に友人と、阪急六甲の島尾敏雄の自宅を訪れたことである。彼の紹介で「入梅」が大阪で発行されていた小さなガリ版刷りの同人雑誌「VIKING」に掲載され、のちにその同人となり富士正晴に師事し小説を書きつづける。「ドミノのお告げ」(原題「落ちてゆく世界」)が昭和二十五年八月、弱冠十九歳で芥川賞候補になったが、受賞には至らなかった。久坂自身、丹羽文雄の「チャーチル會の女優の静物畫の程度である」(「文藝春秋」)という「選後感」に対し「皮膚でもって、字づらだけで作品をみている」と怒りをあらわにした。この芥川賞候補になったことが彼女の人生を大きく左右した。昭和二十七年十二月三十一日遺稿となつた「幾度目かの最期」(「十二月三十一日 午前二時頃」と末尾に久坂自ら記す)を書き上げ、同日午後九時四十五分、京阪急行六甲駅(現・阪急六甲駅)で、三ノ宮発梅田行特急電車に飛び込み、二十一歳で命を絶った。その間小説五十九篇、詩九篇、戯曲十篇、俳句四十八句、随筆二十六篇、小ばなし八、コント四などを残している。「入梅」(昭和二十四)、「ドミノのお告げ」、「灰色の記憶」(昭和二十五)、「霊界の抱擁」、「幾度目かの最期」(昭和二十七)等の代表作品を取り上げ、名家に生まれ育った宿命に泣く久坂の苦悩と反発が、どのように描かれているかを考えてみたい。又昭和二十四年に書かれた詩「こんな世界に私は住みたい」も参照したい。