鴎外『青年』論

鴎外『青年』論
  近代文芸研究者 上野芳喜

 作品『青年』には、青年にとって普遍的な人生の課題とその困難性が提示されている。従って、それを描くことも又困難に満ちていることも他に例を見ない。未だかつてない教養小説という「未踏の領域」を切り拓こうとした鴎外は『青年』に於いて『三四郎』 のフレームを借りて『三四郎』とは異なったもう一人の「知的青年」の「知的生活の展開」相を描き出そうとする。それは、日露戦争後の閉塞した時代状況にあえぐ「煩悶」する青年たちへのメッセージでもあった。

 純一の日記に示された「生活」とは「真の意味で生きること」であり、「芸術と生活」の一致は純一の生の基盤をなすものであり、さらに高度な一致を希求して創作家への道を志向する。

 『青年』が不出来であると評する評家は多い。にも関わらず、『青年』に魅かれてやまないのは何故か。その魅力の基となっているのは創作家を目指す純一の設定と人生観の模索、坂井夫人との閲歴を経て創作の出発点に立つという構想の独自性にある。

 創作家を目指す純一にとつて「積極的新人」の論と芸術論とは別のものではなく、芸術と生活の一致を志向する問題意識に添うものである。人生と芸術の永遠の希求の途次にある純一にとって「ジョン・ガブリエル・ボルクマン」の興行は、人生観上、見逃せない影響を与えるがそこで出会った坂井夫人との閲歴は新たなモチーフを形成する。純一の人生観の模索は象徴主義から利他的個人主義へと展開する。それは大逆事件の影響による「屈折」と言わざるを得ないが、その事こそ鴎外が誠実に時代と向き合い対決した事を証するものである。大逆事件という近代の危機に遭遇して、「芸術と生活」の理想に生きる青年の純粋な生のありようを提示する事によって「危機」を乗り越えようとした芸術的格闘の形象こそ作品『青年』なのである。