田山花袋『少女病』論 病の態様

田山花袋少女病』論 病の態様
  関西学院大学大学院大学院博士前期課程 山本歩


 田山花袋の短編作品『少女病』(明治四十年五月)はこれまで主に、自然主義への本格的出発となる『蒲団』(同年九月)を頂点とした評価の中で、前史的作品として論じられてきた。近年では「電車」や「郊外」、「女学生」といったキーワードから当時の都市文化・風俗の反映を論じられることも増えたが、作品として評価されているとは未だ言い難い。今回はそんな『少女病』を、先行研究では深く触れられることのなかった「あくがれ」(三)=少女に対する思慕の態様と結末を通し、単体で評価することを試みる。

 主人公・杉田古城は「老い」の意識や仕事・家庭生活というものに、やや大仰なほどに苦悩している。その大仰さは彼の文学者としてのコンプレックスに由来するものであるが、また一方では彼が活躍していた時代と今との絶対的な隔絶からでもある。ロマンチックな恋の時代は終わりを告げ、「本能」に従うことが要求されるその中で、彼は処女性を保つか保たぬかギリギリのラインに立つ十代後半から二十代前半の「少女」たちに「あくがれ」てゆく。「あくがれ」とは和泉式部の歌(「もの思へば沢の蛍も我が身よりあくがれ出づる魂かとぞみる」)に用いられるように、対象を想うあまりに魂が肉体から抜け出ることを指す。すなわち「霊と肉」が分離するほどの思慕と妄想に杉田は没頭している。そこに、分離した杉田の霊と肉を描き分け、「肉」を照射しようとする語り手の目が交わるのが『少女病』である。そして、決して手の届くことのないガラス窓の向こうの少女に「あくがれ」たことで死を迎える時、杉田は「黒い大きい一塊物」という極端に「モノ」化された肉体を晒すこととなる。極楽境である車内から現実の世界へ弾き出されたその肉体を描くことこそ、本作の目的だったのではないだろうか。そして、自然主義へと転向していく姿勢が本作に見られるとすれば、そこにこそ見出される。