泉鏡花「竜潭譚」論 ― 〈反国家〉の様相を読む  ―

神戸大学大学院博士後期課程  西村英津子 

「竜潭譚」(明治二九年)は、主人公「ちさと」の幼児体験を通して、前近代の民衆の精神世界が国家に回収されていく様相と、回収しきれない(されない)精神世界があることを示す物語だと私は考えている。そして、本作品は鏡花の思想的転換点に位置する作品とも考えており、本発表では主にこの二点について明らかにすることを試みる。
 この作品の主人公「ちさと」が幼児期に体験した「躑躅か丘」の「たらたら坂」での出来事、「鎮守の社」、「大沼」での出来事は、終わりのない人生の苦難と孤独を暗示している。「ちさと」のこのような幼児体験を救い、戸惑い迷う「ちさと」を温かく導く「うつくしき人」の存在がこの作品にとって重要であることは言うまでもない。人生の苦難を全て見通したかのような、この世に実在しない「うつくしき人」は、現世では巡り合うことのできない存在として登場していると言えるだろう。それは、「ちさと」と「うつくしき人」とが別れた場所である「大沼」も水没し消えてしまうことにも表れている。そして、「うつくしき人」は「ちさと」の記憶の中でのみ残り続ける。
 「清き海軍少尉候補生」となった「ちさと」であるが、国家に仕える軍人としてエリートコースを歩み始めたにもかかわらず、作品内で「ちさと」は水没した「大沼」を訪れ「うつくしき人」を思い、「粛然」と見つめている。つまり、この「ちさと」の姿は軍人となって〈国家〉に仕えるという、現世では人もうらやむ身分でありながら、そのような身分や〈国家〉に自分の拠り所を求めるのではなく、あの「うつくしき人」に求めていることを意味している。作者は、現世(近代世界)での価値の欺瞞性、脆弱さを見抜き、その現世に対する絶望からの救いとして〈あの世〉に救いを求め、「うつくしき人」を追慕し続ける「ちさと」を描くことで、現世への精神的な〈別れ〉をした人間がその後、何を支えに生きるのか、その一つの在り様を提示したのではないだろうか。
そして、本発表では、「海軍の少尉候補生」となった「ちさと」が、〈国家〉の側に身体は回収されるが、意識は回収されないという矛盾と孤独を抱えた青年として描かれていることを立証し、その孤独は鏡花自身の孤独でもあったこと、さらに「ちさと」の〈魔界〉体験=原体験と鏡花の反国家意識からの現世離脱へのまなざしに潜む国民化への抵抗の姿勢と、以後書かれる幻想文学やそこに表れた女性像、恋愛至上主義へと徹した、鏡花の批評意識の内実を、明治二六年のデビュー作品である「冠弥左衛門」も視野に入れて検証してみたい。