王の法と語る身体 太宰治「走れメロス」論

王の法と語る身体−太宰治 「走れメロス」論
   大阪府立大学大学院博士前期課程二年  勝田真由子

 昭和一二年のシナ事変からノモンハン事件、日独伊三国同盟と、急速に日本の軍事体制が激化していった昭和一五年。太宰治の「走れメロス」が『新潮』五月号に発表されたのは、大政翼賛会をはじめとする全体主義思想が急速に進展していった時代であつた。小説というものが、虚構でありかつ現実であるような領域に同時代の歴史性の位置・意味・構造を露呈させる役割を担ってきたことを考えると、この時期の古典を材料とする作品の流行は当然の流れといえよう。太宰の「走れメロス」も、そうした一連の翻案ものに位置付けられてきている。
 本発表では、シラーの詩形を太宰が散文にひき直した過程において付加されたものの指摘を論議の端緒としたい。
 デイオニスの暴虐な統治の正当性(王の法)に対し、メロスがまったくの裸身をさらし「走る」ことで、王の欲望をメロスの身体に向けさせることに成功し、無名の身体のリズミカルな生命に内在する素朴な信頼をもって、新たな法の誕生を宣言した。メロスは「政治がわからぬ」「村の牧人」として造型され、非政治的な存在として描かれる。そのような非政治的存在が、政治(王の法)を動かすという非合理が、「走れメロス」の筋であり、それはシラーの「人質」的主題を太宰が読み取り、増補したと考えられるのである。「万歳。王様万歳。」と歓声をあげる<群衆>を描いたのも太宰であるが、これはカール・シュミットの拍手喝采(Akklamatio)のなかにこそ無名な人民(volk)の多様な意思の総体が表れるという、王の法と無名な民衆との双方向的可変的な関係概念としての、デモクラシー理解が反映されているのではなかろうか。
 こうした太宰のシラー詩パロディが、従来論にいわれる 「保身技術」(松本健一)「私小説からの脱却」(渡部芳紀)という評価にとどまるものであるのか。アリストテレスが『詩学』で明らかにしたように、実際に起こつたことをそのまま記述する歴史とは違い、起こりうることを語ることが出来、行為の因果関係を明らかにすることによって普遍的なことを目指し得るものが詩(=文学)である。シラー詩の主題を引き継ぎつつ、行き詰った同時代を再現の対象とし得たところに、太宰型パロディの本質を位置付けていきたい。