内田百輭「東京日記」論 日常的怪異空間としての東京

内田百輭「東京日記」論 日常的怪異空間としての東京
   関西学院大学大学院研究員  吉川望

 「東京日記」(昭和十三年一月「改造」)は、作中の地名、事象から昭和十年前後の東京が舞台となっていることが明らかである。このような明確な舞台設定が他の百輭作品にはみられないこともあってか、「東京日記」は、文明の発達した都市東京を「魔都」(鈴木貞美氏)として描いたモダーン都市の怪異譚として捉えられ、近代文明に対する百輭の批判精神が鮮明な作品であると評されてきた。
 描かれている怪異が、解釈的な理性や合理性を退けるようなものであることの必然の結果として、近代文明や近代観念に揺さぶりをかけることとなっているのは間違いない。しかしながら、その問い方は、「東京日記」二十三章の中で時代の先端的な事象を怪異の中心に据えているものがわずかに限られていることからしても、文明の発達した都市東京に真っ向から対峙するものとはなっていないと思われる。
 よって本発表では、作中の怪異が一体どのような内実を持つものであるのかを改めて検討し、作品における幻想空間のありようを解明した上で、作者内田百輭が何をもって、どのように都市東京と向き合っているのかを確認していきたいと思う。
 従来、それぞれの章に描かれる不可思議の現象自体が注目され、その象徴性を明らかにすることが試みられてきたが、ここでは、現象に遭遇する「私」のあり方に視点を置きながら、多種多様な怪異の生起する幻想世界の様相を考察する。
 「私」には、「さう云ふ不思議な事もあるのだらう」(「その四」)という非合理性を許容する特徴的な感性が見られる。それは、単に起きた不可思議な現象に対する受けとめとして際立つのではなく、怪異の成り立ちにとって重要だと見えるものである。この「私」のあり方が、東京の各所においてどのように発揮され怪異が生起しているか、つまり「私」のあり方と場との関係を分析することで、怪異の内実、怪異の生起する東京という空間について、明らかにできればと考えている。