阪神近代文学会むかし・いま その機能と意義

阪神近代文学会むかし・いま その機能と意義
   甲南大学教授  高阪薫

 私は島崎藤村などの自然主義文学や島尾敏雄などの現代文学や、沖縄の祭祀を中心とする民俗学や、その他いろいろやってきた。時に「あなたはなにを研究していますか」と初対面の人、あるいは少々面識のある人にもよく質問される。そのときすぐに「これこれです」と言えず、一瞬どう答えればいいか、躊躇する。大雑把にいえばいいのか、具体的に言えばいいのか困るのである。相手によく思われたいと思って、好感をもたれるような答が出来ればいいが、自然主義文学です、とボソッと言うか、さらに島崎藤村です、と明かし、「夜明け前」の研究です、と具体的に言うか、そう言ってもまだ足りないようなので何か付け加えるか、しかし言えば言うほど相手が引いていくような感じがして、なかなか研究内容を的確に答えられない。専門家同士なら、分かってくれる範囲があるが、一般の人いや学生にさえも答えにくいのである。答えても相手が「へェ〜」と感心してくれるわけでなし、いまいちの反応でしかない。
 ことほどさように今でも私は自分の専門分野に対し、自信をもって答えることにためらいの気持ちが先立つのである。これは私だけの気持ちであろうか。いやどうもそうではないみたいで、文学研究者の仲間(特に私等くらいのジェネレーション)に聞いても、「そうだな…」と共感してくれる。さて、それはどこから起因しているのであろうか。
 私は、その背景と理由をいろいろ考えてみた。私の研究業績を一応棚に上げて、私が従事してきた文学が学問としての社会的実用性に問題があるのか。私が関わってきた近代文学研究の学界の内実、つまり組織や機能、研究の対象や方法・理論に問題があるのか。或いはそれらのはやり・すたりに、私がどこまでコミットでき、それの受容あるいは無視の態度をとることに問題があるのか。いま大学の日本文学科の教授・学生たちがおかれている厳しい現実に、私がどこまで関心を示し改善の努力をしてきたかと言った点に問題があるのか。そのような要因が背景となって、私自身が専門分野に対して自信のもてない応答になるのか。
 それをとくと考え、私の沖縄の文学・民俗研究を例にとりあげながら考察したい。それを通じて今後の近代文学研究者とその研究のあり方を考え、参考に供すると共に、阪神近代文学会の今後を考えたい。