沖野岩三郎 小説『宿命』   「懸賞文芸募集」から新聞連載に至る経緯を中心として

沖野岩三郎 小説『宿命』   「懸賞文芸募集」から新聞連載に至る経緯を中心として
   関西大学大学院博士課程  福森裕一

 沖野岩三郎(明治九年〜昭和三十一年)は、おもに大正期の文壇において、賀川豊彦とともに牧師作家として注目を集めた人物である。しかし現在では、その名を知るものは少なく、文学史上からも忘れ去られようとしている。
 彼の実質的な文壇への登場は、大正五年十一月「大阪朝日新聞」社が新築落成を記念して募集した「懸賞文芸」である。そこで、彼の代表作となる『宿命』は二等当選を果たした。応募総数二百十一編、一等との平均点における得点差は、わずか一点の僅差であった。三名の審査員のうちの一人、内田魯庵は沖野の作品を非常に高く評価(九十九点)し、その選評に「第一に掴まへた事件が最も面白いもので明治の政治史又は思想史の貴重なる資料としても価値がある」と記している。
 本来沖野の『宿命』は、一等当選作連載後引き続き「大阪朝日新聞」紙上に連載される予定であったが、そこに大きな問題が持ち上がった。それは、魯庵も記したように、『宿命』という作品に内包されていた「事件」の問題である。その「事件」とは、まさに明治四十三年、多くの逮捕者を出し、世間を震撼させた大逆事件である。「朝日新聞」社は連載にあたり、内務省警保局の内検閲を受けた。そして、その結果そのままでは掲載不可能という判断を下されたのである。大逆事件から約七年が経過しているにもかかわらず、当時のジャーナリズムにおいては、大逆事件について触れることはまだタブーであり、このことからも、事件に対する当局の過剰な反応をうかがい知ることができる。
 結局、朝日と沖野との話し合いの末、『宿命』は予定より約五ヶ月ほど遅れて、大正六年九月六日から「大阪朝日新聞」紙上に連載されることとなった。しかし、それは大幅な削除修正を加えた結果、入選作品とは大きく乖離した作品となってしまったのである。
 以上は、沖野岩三郎『宿命』の成立過程におけるほんの一断片に過ぎないが、その成立過程には非常に多くの複雑な事情が介在し、その連載に至る経緯には、数多くの曲折があった。
 今回の発表では、『宿命』の成立の経緯を詳細に調べ、当時の社会情勢や現存する資料を基にその作品の本質に迫り、沖野と大逆事件との関わりにも言及していきたいと考えている。